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Khong Say Khong Ve. ベトナムの意味なし画像集

そろそろ「ベトナム人の4K」について一言言っておくか 2

zamad.hatenablog.com

に引き続き非常に狭い観測範囲から「ベトナムの4K」について一言。

向学心旺盛(kogakushin)

「向学心旺盛」。これも当たっているとは思う。しかし向学心ではない。向「学校」心である。そのように目に映る。

ベトナムの方々はやたら学校に行きたがるのである。そしてそこで何を学ぶかは結構二の次のように思える。 まるで、別に学校だったらなんでもいい、とにかく学校にいけば人生の問題は全て解決すると言わんばかりにやたらと学校に通うのである。

2個も3個も大学出るのはあたりまえ、ダブルスクールゾロゾロ、社会人になっても夜間は学校普通。 学校のために仕事を休む、学校のために会社を辞めるの普通。親も親で学校が終わってから子供を学習塾や英会話教室に通わせることも多い。 そのため、学校付近は馬鹿な親が無茶苦茶に路上駐車して子供を待つためその時間帯だけいつも渋滞になるほどである。

これはホーチミンさんの影響もあると思う。彼はもともと教師だったこともあり、ベトナムでは教師が大変尊敬される地位にある。 教師は、知識と能力、人格が並外れている救世主とみなされるのである。それに伴いベトナム人は学校にも妙な幻想を持っていると思われる。 この辺の感覚は日本で言う自己啓発セミナーや関連する書籍「キャリアポルノ」を求める心理にちょっと近いような気がする。

キャリアポルノは人生の無駄だ (朝日新書)

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ベトナムは学歴社会なのである。とにかく学校に行って学歴をつけることが重要なのである。 これはベトナムの国営企業が極端に学歴で給与格差をつけていることに起因するだろう。

その、肝心の大学とやらは別にアカデミックな先端研究機関という側面はまったくなく、高度な専門知識を集積教育する場でもない、単なる日本で言う「そのへんの専門学校」である。 しかもそこでの目的は、何かを身につける、研究するのではなく単に「学校に行った、卒業した」という自己満足と学歴がメインになってしまい、実能力的に意味あった?という感じである。 ま、これは日本も同じだがね。

学習意欲とは別で、子供の頃は親のため、大人になってからはメンツのために学校に通うため頭に入れても身にならないのである。

ということで、この「向学心旺盛」でそれが仕事にプラスになるかと言えば、別になんのプラスにもなってない。

ダークサイド

「器用」の場合と同様に、この「向学校心旺盛」にもダークサイドがある。

このやたら学校で勉強したがるということは、裏を返すとつまり「学校」に行かないと勉強をまったくしないということに繋がるのである。独学が非常に苦手なようだ。

zamad.hatenablog.com

ここでも引用したが、向学心旺盛な国民の平均「年間」読書数が「0.8冊」って、こういう部分からも素の好奇心をベースとした向学心なんか殆ど無いこととがわかる。 事実、読書してるベトナム人はほぼ見たことが無い。

モアモアスキルアップ

やたらスキルアップスキルアップと言うのである。スキルアップしたいと熱望するのである。

そして、そのスキルアップを「会社の業務として」で望むのである。つまり、業務時間内に(仕事をやらずに)外部講師を呼んでセミナーを開いたりして欲しいのである。 その心は何かというと「学歴」と同じである。勉強した、それも会社で教えてもらった!というスキルアップ感(実際はしらん)が欲しいようだ。

なので会社で業後に自主的に勉強会を開いても長続きしないのである。勉強とは先生に教えてもらうことであって自分でやるものでは無いからだ。

この実を伴わない「スキルアップ」はどこで活かされるかというと、次の転職である。つまり会社としてはアホクサである。

「器用」でも触れたが、ベトナム人は基本的に仕事に対する合格点が低く、ここで得たスキルなどたかが知れたレベルである。

それ俺出来るよ!

言語というのはネイティブでないとニュアンスを捉えることは難しい。そういう紛らわしい単語がベトナム語にもあるのである。

ベトナム語では「知る」という単語は「biet」という。そして何かが「出来る」というシチュエーションでもこの「biet」という単語を使うのである。 これは言葉遊びっぽくはあるが、ベトナムでは何かが「出来た、出来るようになった」という合格点がかなり低く、ちょっと知っている程度でも「出来る」と言うのである。 そう、ベトナム語としてはどっちで言っても「嘘」では無いのだから。

正解を欲する

実際の仕事では問題は多いが、絶対の正解は無いことが多い。解を自分で探さなければならない。 それが現実の仕事というものであるし、解決できる能力は価値があるわけである。

しかしベトナムの人たちはこの「正解」を欲するのである。そんなものが無いということがわかってないのである。 それが仕事だということも、それに価値があるということもわかってないのである。 仕事とは正解通りにやる作業だと思っているのである。

教師が異常に尊敬の対象になるのは実はこういう迷いにズバリ答えてくれるからかもしれない。

マインドを正しい方向へ

いろいろあるが、この「勉強することに金も時間も惜しまない」マインドがあるということはいいことである。 今は行動が明後日の方向且つ圧倒的に非効率なだけである。 うまくニーズと合致した場合スゴイことになりそうではある。

ま、これは日本も同じだが。

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